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2005年08月17日

庄内釣りの歴史

山形県庄内地方。日本で一番、黒鯛釣り師が熱く燃えたぎるところ。その昔、庄内藩主が心身鍛練のため黒鯛釣りを奨励し、武士は刀の代わりに苦竹で作った「庄内竿」を手に日本海の荒波に立ち向かった。
 250年の釣りの歴史を持つこの土地の釣りを「庄内釣り」と呼び、その伝統は今もなお受け継がれている。魚の大きさを測るのに「尺貫法」を用い、地磯で「尺越え」を釣ったら一人前と言われる。庄内地方の文化は釣りと共に歩んできたと言っても過言ではないだろう。 庄内の釣りの歴史を集めた「致道博物館」が鶴岡市家中新町にある。釣りに関するものが多く展示されているので、庄内に来ることがあれば一度見学に来て頂ければ庄内の釣り文化を感じ取って頂けるだろう。

  


Posted by 黒研 at 21:07Comments(0)庄内の黒鯛釣り

2005年08月17日

庄内竿と釣り

 苦竹の中を切り抜いて作る、中通し竿を「庄内竿」と言う。黒鯛が掛かると、胴調しのその竿は手元からしなる
ため、ちょうど半円を描く。ダイナミックなそのスタイルは、まさに芸術といってもいいくらいだ。
 最近ではグラスファイバーやカーボン仕様の竿が普及したため、庄内竿での釣り人は滅多に見かけることがないのが現状である。また昔では極一般的なものだった「庄内竿」も、制作する人も少なくなり、今では1本10万円もする高級品となってしまっている。
 中通しでの黒鯛釣り仕掛けは、いわゆる「フカセ釣り」。それもウキもオモリも使用しない完全フカセである。
サラシに餌をなじませ、右手で竿を持ち左手で竿を支え、腰をかがめ、穂先をじっと見る。その姿は猟銃で獲物を狙う狩人に似ている。庄内の黒鯛釣り師は、まさに「クロダイハンター」なのである。
 尚、庄内竿に関しては同郷人の黒鯛サイト「三代目碧水の館」で詳しく紹介されています。

  


Posted by 黒研 at 21:11Comments(0)庄内の黒鯛釣り

2005年08月17日

庄内の黒鯛釣り

 現在の庄内での釣りスタイルは、時代の流れと共に大きく変わってきた。中通し竿から外通し竿へ、完全フカセ釣りからウキフカセ釣りへ、「阿波釣法」やら「紀州釣法」ありとあらゆる釣りスタイルが、この庄内でも普及している。
ただ一つ言える事は、庄内の釣り師は一つの釣り方に捕らわれる事はない。黒鯛釣りは、こうでなくては駄目という事はないのである。その時期またはその場所に合った釣り方、仕掛けを考える人が多い。ノッコミ(産卵期)の春磯では、精細な「遠矢ウキ」を使い、夏場の澄み切った海の防波堤では「紀州釣り(団子釣り)」を行い、秋磯のサラシ場では「阿波釣法」がメインとなる。つまりこれは庄内には、黒鯛釣りの基本中の基本、「庄内釣り」完全フカセ釣りが根底にあって、それ以外の釣法は全てその延長線上にあるため、その時々の釣りスタイルで釣れれば、何でもいいという考えではないだろうか。
釣りと共にその文化を育んできた庄内だからこそ、釣法も日々発展しているのもうなずける。庄内の釣り師、一人一人が黒鯛釣りの研究者であり「庄内黒研」はそんな釣り師のネット上の交流場として頂ければ幸いである。

  


Posted by 黒研 at 21:15Comments(0)庄内の黒鯛釣り

2005年08月17日

庄内の黒鯛の呼び名

 庄内での黒鯛の呼び名を紹介しよう。庄内では当歳魚を「シノコダイ」と呼び、2年目になると文字通り「二才」と呼び。そして3年目になると「三才」または「コダイ」「コウダイ(黄鯛)(鋼鯛)」と呼び、それ以上を「クロダイ」と呼ぶ。
但し、庄内弁特有のなまりがあるため、実際にはこう発音している。
 「シノコデェ」、「ニセェ」、「サンゼェ」、「コデェ」、「コウデェ」、「クロテェ」
ちなみに、メジナの子を「クロコ」と呼び、イシダイの子を「タカバ」または「ナナギリ」と呼ぶ。
関西ではクロダイの事を「チヌ」と呼ぶが、私がそう呼ぶと言うことを知ったのはマルキューの「チヌパワー」なるものが出てきてからである。それ以外に「チンチン」とか「ババタレ」など、変な名前で呼ぶ地方もあるが、沢山の名前があると言うことは、それだけ全国的に人気のある魚なのであろう。




  


Posted by 黒研 at 21:17Comments(0)庄内の黒鯛釣り

2005年08月17日

庄内の釣場詳解

 釣りを奨励していた庄内には大昔から、地磯を記した書物が数多くある。文久三年に、庄内藩の陶山槁木が書いた 「垂釣筌(すいちょうせん)」は庄内の釣り文化を知る上で貴重な書とされている。
 明治、大正に入ると武士の釣りから一般庶民の釣りへと変わり、と同時にその技術も進化し、昭和に入って自動車の 普及と共に庄内中が釣り狂いとなった。庄内の釣り場ガイド的な書物も釣り具店を中心として記載され発行されている。
 昭和初期の時代は、今のような印刷技術も発達していなかった為、地名や岩場などはすべて手書きのものが多かったが、昭和40年以降になると、航空写真や詳細な解説付きのものが出回るようになった。現在では、そういった書物は、絶版となったものが多く、古本屋などでは多少汚れていても高い値段で引き取ってくれるようだ。
 最近では、釣り関連の雑誌社による庄内の釣り場の紹介が多く記載されているが、中には地元の人間から言わせると、 完全に嘘と思われる内容や、公開し過ぎと言った内容のものが結構あるので、記載するからには十分な調査と配慮を、お願いしたいものである。


昭和12年8月13日発行 著者(山内善作)発行所(菅原釣具店)持ち主(秦義彦)
庄内地方の湯野浜から加茂の磯場を記したもの。筆による手書きの書物だが、岩の形や名称、釣れる魚の種類まで事細やかに記述されている。

  


Posted by 黒研 at 21:28Comments(0)庄内の黒鯛釣り